会してみる

「嫁に貰ったるわ」

 特別かわいくもブスでもない奴やった。
 子供会の安っぽいクリスマスイベントで記憶に残っているのは、そいつがピンクのマフラーを首に巻いていて、そして変な形の飴玉を食べていたということ。
 人形のようにかわいいわけやない。ただ、よく笑う明るい奴やった。



月9にはほど遠い



「ちょお、誰かポン酢買うてきて」

 ——まぶしい。
 蛍光灯の光を視界いっぱいに浴びながら、俺はヒキガエルのように仰向けになっていた。背中が痛い。「なにをひっくり返っとん」頭上から降ってきた、いやに抑揚のないおかんの物言いにいささか腹が立つ。
 真正面からタックルをかましてきた甥が「おい烈、ショッカーやってや。オレ仮面ライダーな」と、こまっしゃくれた口調でそう言った。シバくぞクソガキ。

「全治三ヶ月や。どないしてくれんねん」
「やーい。もやしぃ」
「風呂に沈められるんと、窓から投げられるん。好きな方選びや」

 鬼や、幼児虐待やと騒ぐジャリを押し退けながら、のそりと起き上がる。
 大型連休に帰省なんぞするもんやない。そう、腹の中でつくづく思う。

「ほら、放してやり。烈は今からおつかい行かなあかんから」
「なんで俺やねん。お前ら親子で行ってこいや」
「ポン酢と一緒に『マイセンソフト』も頼むわ」

 ジャリとまったく同じ顔をしたおっさんが、視線をテレビに固定したまま言う。
 兄貴は昔からこうだ。横柄で、弟である俺の言葉には一切耳を傾けない。


 本来こうしてゴールデンウィークに帰省する予定はなかった。が、事の発端は連休に入る前日。目の前のおっさんから一本の電話がかかってきたことから始まった。
「居間の電球替えてくれへんか」結婚してから実家へと戻ってきたその男は言った。「そんくらい自分でせぇや」そう突き放したものの、現役で殿を貫き続けているそいつにそれは通用しない。「お前の方が背ぇ高いやん。休みの最中やったらいつでもええわ」気だるげな口調で告げたあと、そいつ、もとい兄貴は一方的に通話を切った。

 アホらし。知るか、そんなもん。四連休特に予定はなかったが俺は無視した。
 無視して、そして普段通りの休日を過ごした。けれど休みも中盤を迎えた今日の昼過ぎ「お前いつ来んねん。おかんが鍋する言うてるから、はよ帰ってこい」そう言って、またも兄貴は一方的に通話を切った。なんやねん、ほんま。
 それから三十分置きにしつこく着信を告げる携帯電話に辟易した俺は、車のキーを片手にマンションを出た。マンションからこの実家まで、片道一時間弱。



「で。どっちが行くん」

 はよせぇ。そう言いたげに、珠暖簾から顔を出すおかんの声が居間に響く。
 兄貴はテレビの前から動かない。五歳のジャリもいつの間にか画面に夢中だった。

「……ポン酢だけでええの」
「でかい方買ってきや。それと、舞ちゃんになんか甘いもん。あんた土産もなしに」

 キッチンから兄貴の嫁さんが「ええですよ、そんな気ぃ遣わんで」と、司令塔のおばさんに巧言を飛ばす。おっとりとしたその嫁さんが俺は内心苦手やったりする。
 重い腰を上げる俺に向け、兄貴がもう一度「マイセン」そう言った。やかましい。

「ケン坊。お前はチョコボールでええか」
「おん。あとポテチな」

 まったくかわいげのないガキや。
 いったい誰に似たのか、親の顔が見てみたいわ。










 年明け以来、数ヶ月ぶりに歩く地元の商店街の風景は変わらない。
 どうやって採算を取っているのか今ひとつ分からないコロッケ屋(かなりまずい)子供の時からずっとヨボヨボな婆さんが働いている乾物屋、しょっちゅう客と喧嘩する爺さんがちょっとした名物になっている果物屋。大型連休ですでにどの店もシャッターを下ろしてはいるが、相変わらずどこも健在のようだった。


 最寄りのコンビニにポン酢は置いていなかった。仕方なく十分ほどかかるスーパーまで歩き、億劫な帰路につく。十八時を少し過ぎた辺りはまだ明るい。
 住宅地に差しかかった頃、公園からにぎやかな声が聞こえてくる。そこで小学校中学年くらいであろう男児が数人でサッカーをしていた。
 笑う、ボールを蹴る。笑う、ボールを蹴る、ボールが高く宙を跳ぶ。

「すんませーん。それ、こっちにくださぁい」

 派手に軌道を描いたその円形物は手毬のように数回地面を跳ねたあと、俺の足元で動きを止めた。顔を上げると、いかにも大将そうな子供がこちらに向け「ヘイ」と片手を上げている。生意気そうなそいつは少しだけ岸本に似ていた。
 正面のボールを公園の敷地内に向けて蹴る。ボールが跳ぶ。やがてそれは、岸本に似た子供のやや向こう側で着地した。サッカーは昔から苦手やった。

「……ププッ。ありがとうございまーす」

 ——世の中、親の顔が見てみたいガキが多すぎひんか。
 俺のボールさばきを目の当たりにしたガキ大将が口元に手を当て、クスクスと笑っている。次はその丸いでこ、的にしたろか。ほぼ無意識のうちにこぼれた溜め息を咳払いで隠し、ふたたび前進しようとして。しかし俺は足を止めた。


 滑り台の奥にある二人乗りのブランコが、ふと視界に入った。
 その片方に、なにやら背中を丸めた女が独り座っている。女はブランコを漕ぐわけでもなく、ただそこで手元の携帯電話をぼんやりと眺めていた。
 部屋着のようなゆるいパーカーにラフなサンダル。そいつはどう見ても近隣の住民であろう恰好をしている。そして。その間抜けヅラには、確かに見覚えがあった。

 溜め息と同じく勝手に足が動く。
 自分の目の前にでかい影が落ちて、女はそこでようやく顔を上げた。言った。

「なにしてん。三十路の女がこんな所で」

 目が合った途端、そいつは露骨に眉を顰めてみせる。
 その顔にははっきりと「誰やお前」そう書いてあった。なんや、薄情な奴やの。

「なに? おたく、どちらさん」
「お前の記憶力どないやねん」
「……は?」
「そんで。ここでなにしとるん」
「せやから、あんた誰?」

 丸い目をこれでもかというほど見開きながら、女は威嚇してみせる。
「ほんまに分からんか」もう一度問えば「知らん」と、小型犬のようにそいつは吠えた。続いて「ナンパならよそでやり」などとふざけたことをぬかす。どこの世界に眉毛が半分消えかけた女をナンパする男がおんねん。
 すっかり面倒臭くなった俺は、学生の頃よりだいぶ伸びた前髪をかき上げる。すると一拍、二拍。ずいぶん間を開け、そいつが出目金みたいに目を見開いた。なんともブサイクな顔やった。

「——南?」
「他に誰に見えるん」
「え、え? 嘘、ほんまに? 南やん!」
「テンション上がりすぎやろ。情緒までおかしなったんか」
「ちょ、めっちゃ久しぶりやん。てかなに? その買い物袋」
「そこには触れんとってくれ」
「あー……びっくりした。せや、そんな所に突っ立っとらんと、座りぃな」

 ほれ、と細い人差し指が隣のブランコをさす。
 なにが楽しくてアラサー二人、公園のすみで雁首並べなあかんのや。

「ほら、はよ座りて」
「うっさいの。分かったから大人しせぇ」

 これまで沈みきっていたそいつの表情に、ひとつ花が咲いた。
 じわり、と腹の底で妙な懐かしさが込み上げる。髪の色と落ちかけた化粧で雰囲気こそ違えど、目尻をくしゃりと崩して笑うその癖は、子供の頃から変わらない。

「あんた今、こっちおるん?」
「ただの帰省や。明日の朝一で都心に戻る」
「へえ。都心のどこ? 私は——」


 堰を切ったように喋り始めたこいつは、いわゆる『幼馴染み』というやつだった。付き合いの早さだけでいえば、岸本よりもこいつの方が若干早い。
 幼稚園、小学校、中学校。ここまでは一緒だった。けれど小学三年生の時から俺がバスケットに熱中していたため、岸本ほどの関わりはない。ただ関わりはないが、家が三軒隣だったこともあって、しばしば顔は合わせていた。

 お世辞にも頭はよくない。
 けれど、ひとつ年上のこいつの周りにはいつも人がたくさんおった。

「なんや、一駅先に住んでんねや。そのわりに全然会わへんな」
「生活圏被ってへんやん」
「たしかに。仕事なにしてるん」
「薬剤師」
「ふぅん。どないしてん、ちゃんとエリートやん」

 エリートて。
 アホ丸出しやな。

「お前は」
「派遣会社の内勤。安月給で、毎日こき使われとるよ」

 そう言いつつも、そいつは笑った。目尻の皺がちりめんみたいやった。
 最後に会ったのはいつだったか。おそらく大学を卒業する年の冬だ。その時こいつの隣には男がいて、目は合ったものの俺は知らん顔で素通りした記憶がある。
 クリスマス・イヴだというのに俺は岸本といたし、こいつは趣味の悪い男といた。

「なあ、明日何時に出るん」
「さあ。決めてへんけど、起きたらすぐ出るで」
「そんなら私も一緒に乗せてってや。明後日から仕事やねん」
「厚かましい女やの。起きれるんか」
「モーニングコールして」

 ん、とそいつが顎をしゃくる。携帯電話を出せ、ということらしい。
 そういえばこいつの連絡先知らへんな。会うのも四年ぶりやし、そんなもんか。

「番号言うからかけてや。〇九〇……」
「起きれんやったら置いてくで」
「薄情もん」
「それ、人の顔忘れとった奴が言うセリフやないやろ」

 たしかに、と相槌を打つ首が小刻みに揺れる。
 ——思い出した。「たしかに」は、こいつの口癖や。過去に何度か「それ、アホっぽいからやめ」そう指摘したものの。いまだその癖は直っていないようだ。
 ブランコから腰を浮かせると、隣にいるそいつも同時に立ち上がる。一瞬、小さな身体がぐらりと揺れた。相変わらず鈍臭い奴やな。どこか他人事のように思う。


 すでに日は傾き始めていた。
 ついさっきまでサッカーをしていた子らも、とっくに帰ったようだった。「送ってくれるん」隣から甲高い声がする。「送るもなにもお前んち、通り道やろ」そう言うと、案の定笑い混じりの『たしかに』が聞こえた。
 こうして女と並んで歩くの、いつぶりやろ。に、しても。全然色気が足りひんな。















 * * * * *

 腹が痛い。中やなくて、外が。
 朝一番、寝込みを甥に襲われた。敵はご丁寧に忍び足で客間へと侵入し(二階にある俺の部屋は現在物置きと化している)仰向けで寝ていた俺の腹に全体重をかけ、そのまま圧しかかってきた。危うく内臓が口から飛び出るところだった。

 さすがにカチンときたので、ジャリを布団の上で思いっきり振り回してやった。
 するとよう分からんがジャリは喜んどった。「烈、もっかいやってや」そのリクエストに応えていると「朝からドタバタうるさいねん」と、今度は鬼の形相をしたおかんからやかましく怒られるはめになる。なんで俺が怒られなあかんのや。
 朝飯は昨夜の鍋の残りだった。回りすぎて気分が悪かったため、俺はパスした。居間の電球は帰省して早々に取り替えている。用事は済んだので、さっさと実家を後にした。「ほなな」そう声をかけると、ジャリはいつも通りふて腐れとった。


 時刻は午前十時。当初の予定よりもやや遅く、俺は車の中にいた。
 そして実家から三軒隣の戸建ての前で、かれこれ五分、運転席のハンドルにもたれかかっている。視界に映る玄関の扉が開く気配は、いまだない。

(はよ出てこな、置いてくぞ)

 念じるように扉を睨みながら、幼馴染みであるそいつの顔を記憶から引っぱり出してみる。その顔はやっぱりアホヅラだった。
 ジャリにヘッドロックをかけられながら「出るで」そうあいつにメールを打ったのが今から十分前。すぐさま折り返しの電話が鳴り「うちの前で待っとって」そう雑音とともに告げられたのが八分前。

 ——朝からなにをガチャガチャやっとんねん。
 あと五分待って出てこんやったら、インターホン連打したろか。そんなことを思っていた時だ。重そうな扉が、ゆっくりと開いた。その隙間から呑気な様子で現れたそいつと目が合う。次の瞬間、丸い目がぎょっとした風に揺れた。
 しゃなり、しゃなりと(なんやその歩き方)小さな身体が車に近づいてくる。ガチャ、とフロントドアを控えめに開いた挙動とは裏腹、そいつは言った。

「あんた、どこのヤカラなん」

 開口一番それかい。
 しかし、それよりも。

「顔。塗りすぎちゃうか」

 わずかに車体が揺れたのち、シートベルトを伸ばすそいつがひくり、と口元を引き攣らせる。どうやら俺は地雷を踏んだらしい。に、しても。
 肌の具合はいいとして、まつ毛長すぎんか。それと口紅の色もどないしてん。

「ごめん、よう聞こえんやったわ。なんて?」
「キレんなや。化粧が濃いのは事実やろ」
「なんやとクソガキ。はよ車出さんかい」
「誰がガキやねん。あと待たしたん、お前やで」

 ぴぃちくぱぁちく喚くそいつの隣で俺はエンジンをかける。
「女の身支度は時間がかかる」やら「だいたい昨日、モーニングコールしてって言ったやん。なんで出る直前に連絡してくるん」やら。助手席に座る女は騒々しい。
 こうして律儀に迎え来とんやからええやないか。ほんと、うるさい奴やの。

「出発進行くらい言い」
「いらんやろ。化粧といい、お前の人生無駄多ない」
「このメイクは無駄ちゃうわ。あんたさぁ、そんな斜に構えて楽しいん? 人生」
「あんまり楽しくはないな」
「せやろ? まずな、顔からして覇気がないねん」

 顔からして覇気がないて。なんや、そのシンプルな悪口。
 そいつは続けて言う。

「子供ん時からそうやもんなぁ。今勤めてんの、調剤薬局やったっけ」
「おん」
「元気がない、とかクレームけぇへんの」
「愛想がない、とは言われるけどな。そもそも薬局に元気はいらんやろ」
「まあ、たしかに」

 ふふ、と隣で喉が鳴る。
 ヘラヘラすんな、と言えば、間髪入れず「ニコニコや」と返事が戻ってきた。

「なんで朝っぱらからお前はそんな元気なん」
「これだけが取り柄やから」
「成長せぇへんな」
「あんたもな。変わってんの、前髪の長さだけやん」
「眉毛も生えたで」
「ああ! それ、昨日思った。どしたん。なんでツリ眉卒業してん」

 逆になんでお前は眉毛が減っとるん。
 喉までせり上がってきたそれを、俺はすんでのところで飲み込んだ。


 不自然に訪れた沈黙に臆することなく、そいつはお構いなしに喋り続ける。
 目尻をくしゃりと崩して笑う癖と同じように、一人で勝手ににぎやかなのも昔と変わらない。新鮮味がないその空気は不思議と快適だった。
 四丁目の佐藤さんちの息子がどうの、どこどこの駐車場跡地にできた新築マンションの家賃がどうの、なんちゃらの焼き菓子屋が出した新作がどうの。次々転換される話題に適当な相槌を打っていると、信号が赤になる。
 ほんの一瞬、車内が静まり返った。なんでこいつまで一時停止すんねん。

「そういえば」

 言った。

「南、彼女おらんの」
「は?」
「せやから。彼女」
「おらんけど。なんや、急に」

 助手席に視線をやると、流れるようにそいつはそっぽを向く。
 なんやねんな、いったい。

「——こん」
「なんやて? 声張れ」
「結婚は」
「……してるように見えるか?」

 急にテンションが落ちたかと思えば、なんやこいつ。喧嘩売ってんのか。
 自分で振っておきながら一丁前に気まずそうな顔をするそいつを、俺は半ば呆れながら見つめる。「ジロジロ見んといて」この状況で、そいつは強気な態度で言った。

「一応聞いとくわ。なんの確認なん」
「別に」
「お前は」
「え?」
「彼氏。旦那でもええけど、おらんの」
「おったら一人で帰省なんかせぇへんわ。アホ」
「お前それ、よう俺に言えたな」

 いっそ清々しいほど逆ギレしてみせたそいつが、ふたたび黙り込む。せやから黙るなよ。と、いうか。なんで俺がキレられてん。
 車内にカチ、カチとウインカーの音が響く。先に口を開いたのは俺だった。

「朝飯食うたん」
「お母さんから貰ってパン食べた」
「お前んとこ、配給制なんや」
「配給て。いつの時代よ」

 たしかに。そう返したあと、そいつの口癖が移っていることに気づく。——たしかにの感染力、えぐないか。これ。
 プ、と背後からクラクションが鳴った。信号は青に変わっていた。

「なあ。なんかお昼食べて帰ろうや」
「パン食うたんやろ」
「菓子パンなんて、実質おやつやん」

 いや、ちゃうやろ。胸中で突っ込みながら、そしてふと思い出す。
 そういえば昔からこいつはよく食う奴だった。あれは確か小学四年生の頃、昼休みの時間。渡り廊下で鉢合わせたそいつの手にはみかんがふたつ握ってあった。聞けば、風邪で休んだ子の分を貰ったんだとかなんとか。「ええやろ」得意げにみかんを見せびらかしてくるそいつに「安い女や」そう、幼いながらに呆れた記憶がある。
 ただ牛乳は嫌いだったのか、それはいつも掃除の時間、タイミングを見計らってはこっそり俺に押しつけに来よった。ひょっとすると、毎日牛乳を二本飲んでいたせいで俺は背が高いんかもしらん。

 あくびを漏らすと隣から「しゃきっとし」そう鼓舞が飛んでくる。うっさいの。
 都心までおおよそ四十五分。ラジオのような女が、また喋り始めた。










「かけ蕎麦ひとつ」
「と、おかめ蕎麦ひとつ。紅生姜天追加で、あとシソおにぎりもください」

 うんともすんとも言わず、その婆さんは厨房に消えて行った。
「あのお婆ちゃん、あんたとええ勝負やわ」トイメンに座るそいつがわざわざ身を乗り出して言う。なにがや、とは聞かんやった。


 昼時、都心の飯屋はどこも混んでいた。
 商業施設の飲食フロア、近隣の飲食店。適当なパーキングに車を駐め、空いている店を探して何件かほっつき歩いたものの。大型連休の街は人で溢れ返っている。
「もう嫌や。お腹減ったし人は多いし、歩きたない」ええ歳こいて半べそをかきながら歩くそいつにイラっとし、通りの外れに出たタイミングで、俺は力なく風を切るその細い手首を引っ掴んだ。適当に開いた引き戸の先は古びた蕎麦屋だった。

 小さなテーブル席がみっつに、幅の狭いカウンターが一列。暇そうなそこに小さな背中を押し込むと、そいつはご機嫌な様子で(現金な奴やな)一番奥のテーブル席へと向かって行った。客は俺らだけのようやった。
 この時間帯に店内ガラガラて、ここ潰れるんとちゃうか。

「あんまりお腹空いてへんの」
「ぼちぼち空いとる」
「はあ? それやのに、かけ蕎麦一杯だけ? おもんないなぁ」
「お前がよう食うだけやろ。ちゅうか、おかめ蕎麦て。ババくさ」
「うっさいわ。男ならトッピング全部乗っけて、大盛り食べ」

 こいつはどこの大食漢と付き合うてん。そもそも。
 幼少期の頃からあまり食に興味はない。あれが食いたい、これが食いたい。そう言って騒ぐ奴の気がよう知れん。ある程度腹が満たされればそれでよかった。

「もっとちゃんと食べや。手と足、芋けんぴみたいになってんで」
「どんだけ腹減っとんねん」
「けどまあ。そのわりに、あんま美味しそうやないけど」
「お前は焼いたらちょっと美味そうやな」
「なんやて? 誰がデブや」

 そこまでは言うてへん。
 ただ四年前に比べると、確実に丸くはなっとる。

「学生の頃は、もっとええ身体しとったやん」
「そらあんだけ吐くまで食うて動けば、誰でもああなるわ」
「え。吐いてたん?」
「俺、高一ん時のあだ名。『けろっぴ』やで」

 苦い思い出とともに冷やを流し込む俺の正面で、そいつはケラケラ笑った。
 ちなみに小学生の頃。こいつは陰で『チョロ松』そう呼ばれとった。

 クラッシュアイスを噛み砕きながら、高校時代、部活に打ち込んでいた時のことを思い出す。あの頃も、走り込みより食べることの方が断然辛かった。食うと身体が重い(そして走りすぎて吐く)が、しかし食わな今度はスタミナ切れを起こす。
 今でも食に関心はない。ただ昔から、たくさん食える奴のことは羨ましかった。

「けろっぴ。ここ、おでんあんで」
「やめ。飯屋で」
「言い出したん自分やん。せやけろっぴ、おにぎり一個食べる?」
「いらん。それより厚化粧、そこのピッチャー取ってくれ」
「あ、厚化粧ぉ? ……こんのクソガキ」

 御年二十八の男相手に、伝家の宝刀が『クソガキ』て。語彙が貧困すぎるやろ。
 ピッチャーからそそがれた水を(ドボドボこぼれてるて)飲みつつ、俺はキャンキャン吠え続けるそいつの文句を聞き流した。右から左はガキの頃から得意だった。


 注文した物が運ばれてくるのに時間はかからなかった。
 カランコロン、といかにもやる気がない下駄の音が聞こえてきた次に「お待ちどおさん」と、やや不機嫌な声が降ってくる。不愛想な婆さんの顔にははっきりと「あんたらずっと、飯屋でなんちゅう会話してん」そう書いてあった。
 どこかバツが悪い俺の反応を見てか、はたまた婆さんの露骨な態度がツボに入ってか。そいつは俯きつつ、肩を震わせている。いったいなにがそんなおもろいねん。

「ごゆっくり」

 足音と同様、やる気のない背中を見送る俺に、正面の女が箸を差し出してくる。
 そない殊勝なタチでもあるまいし。こいつのゴマすりは分かりやすい。

「なあなあ。あんた、このあとなにするん?」
「日用品買うて帰る」
「ほんならさ、私の買い物も付き合ってや。夏服見ときたいねん」
「なんでもええからはよ食え。蕎麦、伸びるやろ」
「せやかて熱いし」
「——お前、まだ猫舌直ってへんのかい」

 饒舌は変わらへん、猫舌も直ってへん。おまけに鈍臭い。
 ほんま、なんやねんな。

「進歩がない奴やの。岸本以下ちゃうか」
「うっさい。そういえば、実里君は元気しとん」
「去年結婚したで」
「はあ!? 誰と」
「飲み屋で引っかけた女と」
「う、嘘やろ」

 そない嘘ついてどうすんねん。
 俺の手元に視線を落としながら、そいつは一人なにやらでかい溜め息を漏らす。続いて「結婚かぁ」と小声で呟いた。せやから蕎麦、伸びるて。

「あんさ、南。あんたはほんまに彼女おれへんの」
「おれへん言うてるやろ。しつこいの」
「結婚願望ないん」
「ない」
「一人、寂しいとか思わん?」
「思わん。それ、食わな置いてくで」

 箸箱からレンゲを取り出しながら言うと、ようやく丸い目が手元のどんぶりに向いた。ほんと、とろい奴やな。
 への字に曲がった口が蕎麦をすする。すると「熱っ」やら「この生姜天、ころもシナシナや」やら。とにかくそいつは食事中も一人で勝手に騒がしい。

 ここまでくると、もはや才能やな。
 そんなことを思いながら俺は早々に蕎麦を食べ終えた。トイメンに座る女はまだ中身が半分残っているどんぶりと格闘している。ほれみぃ。ちんたらしとるから、麺が汁吸って膨張しとるやないか。アホ。
 ちまちまハムスターのように食べ進めていくそいつを眺めながら、このままのペースでいくと、夜が明けるんちゃうか。俺はそんなことを考える。テーブルの上に頬杖をつきながら、テレビから流れてくるスポーツ中継に耳を傾けた。暇やった。

「南、南」
「なんや」

 言った。

「おにぎり。一個食べて」

 壁にかかったカレンダーへ向けていた視線を、ふたたびテーブルに戻す。
 ひとつ減らした握り飯の皿をそいつが俺の前に置いた。「入らんのか」そう聞けば「いける思うてんけど」と、口紅が落ちた唇がわずかに持ち上がった。
 少しだけ乾燥した握り飯を見つめたあと、汁だけが残ったどんぶりの上に置いてある箸に俺は手を伸ばす。おや、という風に丸い目がその手を追った。

「食べてくれるん?」
「お前が言うたんやろ」
「そうやけど。あんた、潔癖そうやのに」
「アホか。ガキん時から、どんだけお前の食いかけ食わされた思うてん」

 子供会のクリスマスイベントで出てきたショートケーキ(いらん言うたら盗られた。そして生クリームでこいつは胸焼けを起こした)うちで晩飯を食べた時、おかわりした白米(三杯も食うからや)思い出したらきりがない。
 そういえば昨日もジャリが残した白米、俺が食うたな。なんやこの現象。

「ありがとう。けろっぴ」
「吐く時は、お前の方向いたるからな」

 低い咳払いが店内に響く。厨房から出てきた婆さんが、俺を睨んだ。
 今日は朝から流れ弾に当たってばかりだ。


 さっさと握り飯を片づけ、俺は水を飲み干す。
「おにぎり食べてくれたお礼に、あんたの夏服コーディネートしたるわ」ティッシュで口元を拭いながらそいつは言った。ええて。あと、こいつの買い物絶対長いやろ。
 時刻は十二時ちょうど。テレビの番組が『月九』の再放送に切り替わった。